LOGIN翌朝。
リリア・エヴァレットは人生で最悪の目覚めを迎えた。
「……夢じゃなかった……」
天井を見上げながら呟く。
期待していた。 目覚めたら全部なくなっているかもしれないと。王命も、婚約も、銀狼公爵も。
だが現実は残酷だった。
机の上には昨日届いた王家の文書。
見れば見るほど胃が痛くなる。「行きたくない……」
正直な本音だった。
誰だって嫌だろう、いきなり結婚しろと言われれば。 相手は顔も知らない英雄。 しかも噂では氷の化け物みたいな男。「……逃げる?」
呟いた。
三秒考え、無理だと悟る。 王命である。 逃げた先まで追ってくる。 たぶん、絶対、確実に。「……はぁ」
重い足取りで着替える。
一番ましなワンピース。 何年も前に母が仕立ててくれた薄青の服。 貴族としては質素すぎる。 でも今の自分にはこれしかない。髪を結び鏡を見る。
顔色が悪い。「……大丈夫」
誰に言うでもなく呟いた。
すると、屋敷の前から馬の足音。
迎えが来た。
人生が終わったと絶望する。
◇
王家の馬車は想像以上だった。
広い、柔らかい、揺れない。だが怖い。
「……帰りたい」
御者には聞こえない程度の声で呟く。
窓の外では王都が流れていく。 賑やかな商業区。 貴族街。 そして北区。 王都でも最も格式ある土地。 巨大な門が見えた。 銀狼の紋章、ヴァルハルト公爵邸。「……大きすぎる……」
屋敷じゃない、城だった。
三階建て 白い石造り 広大な庭園 噴水 薔薇園どう考えても没落伯爵家の人間が来る場所ではない。
馬車が止まると扉が開く。 降りた瞬間、緊張で胃が縮んだ。 使用人たちが並んでいる。十人……いや二十人。
全員綺麗に頭を下げた。「ようこそお越しくださいました、リリア様」
年配の執事が前へ出る。
完璧な礼、隙がない。「私は執事長のグレイと申します」
「……リリアです」緊張する、ものすごく。
「閣下がお待ちです」
「……今すぐですか」 「はい」逃げる時間もない。
最悪だ。長い廊下を案内される。長いだけでなく広くて静か。
足音だけが響く。 途中、飾られた肖像画が目に入った。軍服姿の青年
銀色の髪 鋭い瞳 整った顔立ちそして――
圧倒的な威圧感。
「……公爵様?」
「二年前のお姿です」執事が答えた。
絵ですら怖い。 実物はもっとだろう。今すぐ帰りたい。
扉の前で足が止まる。 執事が言った。「こちらです」
重厚な扉、執務室。
「……失礼します」
返事はない。
執事が扉を開く。 部屋へ入る。 広い部屋に本棚、机、窓。 そして、窓際に立つ一人の男。銀色の髪に黒い軍服。
背が高く肩幅が広い。 まるで剣そのものみたいな人。その男が振り返る。
息が止まった。
綺麗だった。 怖いくらい。 冷たい銀の瞳。 整いすぎた顔。 けれど――そこには温度がない。
人形みたいだった。「……リリア・エヴァレットです」
緊張で声が硬くなる。
沈黙。 視線だけが向けられる。 見られている。 ただそれだけなのに。 息苦しい。やがて、男が口を開いた。
静かで低い声。 感情がない。「来たか」
それだけ。
それだけなのに、妙に威圧感があった。また沈黙。
長い。 居心地が悪い。「あの……」
「座れ」言われるまま椅子へ座る。
男は向かいへ座った。 距離が近い。 緊張する。 どうしていいか分からない。 先に口を開いたのは向こうだった。「レオン・ヴァルハルトだ」
知ってます。
心の中だけで返した。「単刀直入に言う」
銀の瞳が真っ直ぐ向く。
逃げ場がない。 そして、彼は言った。「君を愛するつもりはない」
――は?
思考が止まった。
「……え?」
「必要以上に関わるつもりもない」淡々と。
事務連絡みたいに。「君には公爵夫人として最低限の役割を果たしてもらう」
「……ちょっと待ってください」 「質問は後で聞く」 「いや聞いてください」 初対面である。 なのに。 何なんだこの男。「結婚後、生活に不自由はさせない」
「そういう話じゃありません」 「必要なものは用意する」 「聞いてます?」 「自由に暮らせ」 「人の話を聞いてください!」気づけば立ち上がっていた。
レオンが初めて少しだけ目を見開く。 たぶん驚いたのだろう。 知らない。 でも少しだけ。 本当に少しだけ。 人間っぽかった。「何なんですか、さっきから」
怒りが込み上げる。
怖かった。 でも、それ以上に腹が立った。「愛するつもりはない?」
言葉が止まらない。
「必要以上に関わらない?」
レオンは黙っている。
「私は物じゃありません」
静かになる。
部屋が。 空気が。「勝手に決めないでください」
胸が苦しい。
ずっとずっと頑張ってきた。 家を守るため一人で。 誰にも頼らず。 なのに、初対面で。 まるで都合のいい道具みたいに。「……帰ります」
立ち去ろうとした。
その時。「……道具だとは思っていない」
足が止まる。
振り返る。 レオンは静かにこちらを見ていた。 さっきと同じ顔。でも少しだけ何かが違った。
「君の言う通りだ」
低い声。
静かだった。「勝手だった」
謝罪した。
予想していなかった。だからか、一瞬言葉を失う。
「……なら」
「だが」遮られる。
まっすぐな銀色の瞳。 逃げられない。「それでも、この結婚は必要だ」
空気が変わった。
冷たい。 張り詰める。 なにか理由がある、そう思った。 何か隠している。けれど、分からない。
分かるのは、この男がとてもひどく孤独そうだということだけだった。
その瞬間、扉の外で何かが落ちる音。
次いで悲鳴。 レオンの表情が変わる。初めて明確に何かが張り詰めた。
「……閣下!」
執事の焦った声。
レオンが立ち上がる。 その横顔を見た瞬間。 理由もなく嫌な予感がした。 胸が妙にざわついた。まだリリアは知らない。
英雄と呼ばれる男が誰にも知られず静かに壊れていることを。
そして、自分だけがその苦しみに触れることになると。
『お前は後悔する』 静かな声だった。 けれど、その言葉は妙に重かった。 夜の静寂。 揺れる灯り。 銀色の瞳だけが、じっとこちらを見ている。 リリアは本を抱えたまま唇を噛んだ。「……それでも知りたいです」 逃げるつもりはなかった。 ここまで来て、今さら見ないふりなんてできない。 レオンはしばらく黙っていた。 何かを考えるように。 あるいは。 迷うように。 やがて彼は小さく息を吐いた。「……座れ」 低い声。 リリアは少しだけ目を瞬かせた。 拒絶されると思っていた。 だが違った。 レオンは部屋へ入り、窓際の椅子へ腰を下ろす。 その姿は相変わらず絵になる。 夜色の服。 銀の髪。 月明かり。 まるで一枚の絵画だった。「……そんなに見られると話しづらい」 「すみません」 思わず謝る。 レオンは軽く額を押さえた。「……お前は時々、妙に素直だな」 「レオン様にだけは言われたくありません」 「俺が?」 「はい」 即答すると、レオンは少し黙った。 否定しない。 最近分かってきた。 この人は、自分に都合の悪いことを言われると静かになる。 分かりやすい。「……本の内容はどこまで読んだ」 「魔物化について少し」 「そうか」 レオンは視線を窓の外へ向けた。 王都の夜景。 遠くに灯る街の明かり。 静かな横顔。「黒霧は、人を侵す」 低い声。「長く触れれば身体が変質する」 「……」 「俺の場合、かなり深く侵食されているらしい」 らしい、という言い方に違和感を覚えた。 まるで他人事みたいだ。「自分のことなのに、随分冷静なんですね」 「実感が薄い」 「え?」 レオンは少し考えるように沈黙した。「痛みはある。熱も。だが、感情が薄くなる」 リリアは息を呑む。 やはり。「怒りも、恐怖も、悲しみも、徐々に分からなくなる」 静かな声。 怖い話をしているはずなのに。 レオン本人が淡々としているせいで、余計に恐ろしかった。「最初は楽だった」 「……楽?」 「ああ」 レオンはゆっくり目を伏せる。「何も感じなければ苦しくない」 胸が痛んだ。 それはどれだけ孤独だったのだろう。「だが」 銀色の瞳がこちらを見る。「周囲は
「じっとしていてください」 夕暮れの中庭。 リリアは半ば強引にレオンをベンチへ座らせると、すぐ近くのテーブルへ薬草を広げた。 レオンは不服そうだった。「……本当に大丈夫だ」 「患者の“大丈夫”は信用しない主義です」 「患者扱いか」 「病人を病人扱いして何が悪いんですか」 即答すると、レオンは口を閉ざした。 反論できないらしい。 リリアは小さくため息を吐きながら薬草を選別する。 熱を抑える青葉草。 痛みを和らげる薄雪花。 炎症を鎮める白銀樹皮。 幸い、公爵家の薬庫には質の良いものが揃っていた。「飲めるものを作ります」 「必要ない」 「必要です」 「……」 「拒否権はありません」 昨日、自分が言われた台詞をそのまま返す。 レオンが僅かに眉を寄せた。「根に持つな」 「持ちます」 「そうか」 「そうです」 妙に素直だ。 調子が狂う。 リリアは薬鉢で薬草を潰しながら、ちらりとレオンを見た。 夕陽が銀髪に落ちている。 綺麗だ……悔しいけれど。 その横顔は、物語に出てくる英雄そのものだった。 ――黙っていれば。「……何を見ている」 視線に気づいたらしい。「別に」 「何か言いかけただろう」 「言ってません」 「顔に書いてある」 「レオン様こそ、顔に出るようになりましたね」 そう言った瞬間、レオンが少しだけ動きを止めた。「あ……」 失言だったかもしれない。 昨日までの彼は、本当に感情が薄かった。 でも今は違う。 少し目を逸らす。そういう小さな変化がある。 レオンは静かに視線を落とした。「……お前のせいだ」 「え?」 「昨日から妙に調子が狂う」 低い声。
翌朝。 リリア・エヴァレットは見知らぬ天井を見上げながら、しばらく無言だった。「……ここどこ」 ぼんやり呟く。 数秒後、思い出した。 ヴァルハルト公爵邸。 銀狼公爵。 契約結婚。 呪い。 昨夜の会話。 そして『……死にたくない』 あの言葉。 思い出した瞬間、胸の奥が妙にざわついた。「……重症ね」 自分で言って、自分で顔を覆う。 昨日会ったばかりの相手だ。しかも第一印象は最悪。 なのに、あんな顔を見せられたら、放っておけるほど冷たくはなれない。「はぁ……」 ベッドから起き上がる。 広い部屋だった。 淡い生成り色のカーテンに柔らかな絨毯、磨かれた家具。 どう見ても客室ではない。 下手な貴族令嬢の自室より豪華だ。 その時、控えめなノック音が響く。「リリア様、失礼いたします」 入ってきたのは若い侍女だった。 栗色の髪。 緊張した顔。「朝食のご用意が整っております」「……朝食」 そういえば昨日、ほとんど何も食べていない。 空腹を思い出した。「ありがとうございます」 ベッドを降りる。 すると侍女が、どこかほっとした顔をした。「……?」「あ、申し訳ありません」侍女は慌てて頭を下げた。「お怒りになって、今朝には帰られているかと……」「帰りたい気持ちはあります」 本音だった。 侍女が困った顔になる。 リリアは慌てて続けた。「でも、あなたたちに怒っているわけじゃないから」「&h
扉の向こう。 静かな足音が近づく。 一歩、また一歩。 リリアは無意識に息を止めていた。 ――来る。 理由なんてない。けれど分かった。 扉が叩かれる。 控えめに二回。「どうぞ」 グレイが答える。 扉が開いた。 銀色の髪に黒い軍服。 そして、静かな眼差し。 レオン・ヴァルハルト。 つい先ほどまで意識を失っていたとは思えない。 いつも通り。 何事もなかったみたいな顔。 けれど、違う。 少しだけ、ほんの少しだけ顔色が悪かった。「閣下」 グレイが頭を下げる。 レオンは軽く頷いた。 そして、銀色の瞳がこちらを見る。 静かに、真っ直ぐ。「……悪かった」 第一声がそれだった。 予想していなかった。 もっと、こう……『余計なことをした』とか。『忘れろ』とか。 そんな言葉が来ると思っていた。「……何がですか」 思ったより声が硬くなった。 レオンは少しだけ沈黙した。「巻き込んだ」 短い。それだけ。 でも、胸の奥、何かが少しざわつく。「説明を受けた」 リリアは言う。「そうか」「それだけですか」「……何がだ」「何が、じゃありません」 静かに、けれど確実に。 怒りが戻る。「最初から知っていたんですよね」「……ああ」「私が必要だから結婚するって」「そうだ」「否定しないんですか」「事実だからな」 ものすごく腹が立つ。「だったら!」 思わず声が大きくなった。
「……レオン様」 返事はない。 銀狼公爵レオン・ヴァルハルトは静かに意識を失っていた。 信じられなかった。ほんの少し前まで氷みたいに冷たい顔で、人を寄せつけない空気を纏っていた男。 それが今は驚くほど無防備だった。「……重い……」 思わず漏れる。 身長差がある。当然だ。 鍛えられた体、支えるだけでも精一杯。「誰か!」 声を上げる。 すぐに扉が勢いよく開いた。 執事長グレイと医師、使用人たちが入ってきた。 そして、銀狼侯爵の様子を見ると全員の顔が強張る。「閣下!」「運びます!」 医師たちが駆け寄る。 ベッドへ移されるレオン。 乱れた銀髪。 閉じられた瞳。 苦しそうな呼吸。 さっきまで見えていた黒い侵食は、ほんの少しだけ薄くなっていた。 それを見た瞬間、医師の一人が息を呑んだ。「……まさか」 グレイも気づいた。 明らかに空気が変わる。 全員何かを知っている。 自分だけが知らない。 その状況が無性に腹立たしかった。「説明してください」 静かな声だった。 けれど、自分でも分かる。怒っている。「……リリア様」「説明を」 グレイが沈黙する。 迷っている。隠すか、話すか。 数秒、重い時間。 やがて、彼は静かに頭を下げた。「……こちらへ」 ◇ 案内されたのは小さな応接室だった。 温かい茶が用意される。 けれど、飲む気にはなれない。「話してください」 正面には執事長グレイ。 白髪混じりの髪に整った礼服。
「……閣下!」 執事の声が廊下へ響いた。 空気が変わり張り詰める。 さっきまで静かだった屋敷の空気が、一瞬で何かに飲み込まれたみたいだった。 レオン・ヴァルハルトは何も言わない。けれど、その銀色の瞳だけが僅かに鋭くなる。「失礼する」 短く告げる。 すぐに部屋を出ていこうとした。「あ、待っ――」 呼び止めようとして、やめた。 今の空気は明らかに何かがおかしい。 扉が閉まり、広い執務室に静寂が取り残された。「……何なの……」 嫌な感じがした。 胸の奥が落ち着かない。 さっきの執事の声。 あれはただ事じゃなかった。 数秒考える。 迷う。 そして――「……帰る空気じゃないわよね」 誰もいない部屋へ呟く。 しかし気になる。 ものすごく。 良くないことだとは分かっている。 でも、薬師として。いや、人として。 あの空気を無視することはできなかった。 扉を開けると静かな廊下の少し先で人の気配がする。 使用人たちだ。何人か集まっている。 みんな顔色が悪い。「……何かあったんですか?」 問いかける。 若い侍女がびくりと肩を震わせた。「あ……」「閣下に何か?」 使用人たちが皆沈黙してしまう。 どうやら迷っているようだ。 言うべきか。 言わないべきか。 そんな顔。「大丈夫です」 少し声を柔らかくする。「無理にとは言いません」 年配の使用人が小さく息を吐いた。「……いつものことです」「いつもの?」「閣下は、お疲れが重なると……時々、お身体を悪くなさるのです」 身体を悪くする。 曖昧な言い方。 隠している。 そう思った。「医師は?」「診ていただいております」「なら」「……治らないのです」 空気が重くなる。 誰も目を合わせない。 まるで触れてはいけない話。 そんな雰囲気だった。「どちらですか」「え?」「レオン様」 気づけば聞いていた。 侍女たちが驚いた顔をする。 当然かもしれない。 婚約者とはいえ今日初めて会ったばかり。 それなのに。「……案内してください」 ◇ 屋敷の奥のさらに奥。 静かな廊下。 使用人が立ち止まる。「こちらです」 重厚な木製の扉。 その前に執事長グレイが立っていた。 こちらを見ると少し驚いた顔をした。「リリア様」「中にいま







